ストーリー

足利氏ゆかりの土地めぐり

源義家

 八幡宮(足利市八幡町、東武鉄道野州山辺駅下車、東へ徒歩10分)。

 頼義・義家親子が、前九年の役、後三年の役に出陣するとき、この地に京都の岩清水八幡を勧請したそうです。義家が家臣の県氏をこの地に残したといわれ、近年まで県姓の人が宮司をしていました。明治の廃仏毀釈以前の境内は鑁阿寺よりさらに広大でした。

 縁切稲荷が境内に同居しています。

  • 源義国&義康 義家の息子である義国とその子義康は八幡宮の北西徒歩15分の場所に館を構えたようです。野州山辺駅下車、北東方向へ徒歩10分の円満寺付近がその源氏屋敷ですが、現在は地名が残るのみ。遺構は何もありません。円満寺境内の不動堂に新田源朝臣道純拝書と扁額が掲げられていることが微かに源氏屋敷の面影と言えるでしょうか。
  • 源(足利)義兼 義康の息子、義兼は源頼朝といとこで同時に義弟でした(奥さん同士が姉妹)。鑁阿寺と、足利インターチェンジ近くにある樺崎八幡宮(足利市樺崎町)と、光得寺が彼のゆかりの地です。樺崎八幡宮の社殿の下に義兼が埋葬されていると伝えられています。義兼の後を息子、義氏が継ぎました。
  • 足利義氏 法楽寺(足利市本城2丁目)。織姫山へ登る自動車道の上り口にあるお寺。義氏が鎌倉時代に創建しました。かれの墓があります。本堂が京都の銀閣寺と似ています。江戸時代ごろ改築した時に銀閣を模したようです。寺としてはこちらの方がずっと古く、銀閣を建てた将軍足利義政は義氏の子孫です。法玄寺もゆかりのお寺(足利市巴町)です。織姫神社階段上り口のところから1〜2分ほど東へ歩いた山裾にあるお寺。北條時子の(と伝えられる)墓が現存。彼女は北条政子(源頼朝の妻)の妹で、足利義兼の妻(義氏の母)でした。
  • 足利泰氏 平石八満宮(足利市山下町)。足利市街地から西へ5キロほど離れた山あいの県立高校裏手にある神社。泰氏が住んだ居館の跡だと言われます。鎌倉時代には極楽浄土を模した立派な庭園があったそうですが現在は寂しい社殿が残るのみです。
  • 足利頼氏 吉祥寺(足利市江川町)。足利市街地から北方へ、ココファームワイナリーへ向かう道の西側の山裾にあるお寺。ここも鎌倉時代には極楽浄土を模した立派な庭園があったそうです。鎌倉時代の足利氏当主は代々、幕府での要職を退くと晩年は足利に帰りました。その隠居所がお寺となっています。吉祥寺はあじさい寺として有名です。
  • 足利貞氏 尊氏・直義兄弟の父である貞氏は鑁阿寺の大規模な改修をしました。鑁阿寺伽藍は貞氏改修時の状態をほぼそのまま現在に伝えています。
  • 足利尊氏 善徳禅寺(足利学校東側の隣り)を創建しました。
  • 京都へ移って将軍になってからの足利家と足利とは縁が薄くなりました。


また、足利氏より時代がずっと前になりますが、足利から群馬県南部にかけて、古代人の古墳が多数あります。東日本最大規模とされる古墳が隣接する太田市に存在し、そこは足利市街から距離が10キロもない近さ。

足利市街の西・北・東の三方を取り巻く里山には小さい古墳が非常にたくさんあります。殊に足利公園がある山(草雲美術館・八雲神社などの裏山)と、渡良瀬川を挟んでその南に向かいあう形の八幡山(市立山辺小学校の裏山)は、山肌が古墳だらけ。歩いてみると、あちこちが不自然にお椀状にポコポコふくれているのが分かります。その一つ一つがぜんぶ古墳なのです。

ちなみに源義家ゆかりの八幡宮がその八幡山の南麓にあります。また足利公園の山の東麓のあたりに古代中世の東山道の足利驛があったのではないかと言われ、現地に歴史案内板が立っています。




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